町指定史跡について

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史跡の詳細

1.山口藩増毛出張所跡
明治維新直後、蝦夷地が北海道となる前に、39の領地に分割された時期がありました。
明治2年に蝦夷地開拓が定められた際、山口藩や水戸藩が現地の領有と入植を申し出たのです。
留萌や増毛は江戸時代から好漁場であったために、秋田藩を含めいくつかの藩が願い出ましたが、最終的に明治維新で功績のあった長州藩こと山口藩が増毛を担当することとなりました。
早速山口藩の増毛出張所が設置されますが、明治4年に廃藩置県が行われると、蝦夷地は北海道として統一。開拓使の管理下に置かれることとなり、山口藩も増毛を引き揚げていきます。
結局山口藩の滞在は、たったの1年半という短い年月で終了してしまったのです。
指定年月日:昭和53年6月30日
所在地:増毛町弁天町2丁目

2..御料局札幌支庁増毛出張所跡
かつては増毛にも御料林として指定された地域がありました。
御料林とは明治憲法下において皇室の財産とされた森林のことで、明治23年には全国に50カ所以上、350万ヘクタールを有していたのです。
現在、増毛稲田線こと、道道94号線が走っている町内地域に、「信砂御料」という地名が残っているのが当時のなごりで、この御料林を管理していたのが明治23年に設置された御料局札幌支庁増毛出張所でした。
その後、大正3年に庁舎は留萌に移転し、増毛の施設は帝室林野管理局留萌出張所増毛分担区員駐在所となります。
御料林は戦後廃止され、国有林として農林水産省の管轄になりました。
指定年月日:昭和53年6月30日
所在地:増毛町弁天町3丁目

3.秋田藩増毛元陣屋第一台場跡
幕末の時代、この頃の北海道ではロシアの脅威に備えた北方警備が行われていました。
増毛には秋田藩が元陣屋を築き、警備拠点としていたのです。
ここは、「秋田藩増毛元陣屋第一台場跡」と言って、秋田藩が異国船に対する備えのために砲台を設置した場所の一つです。

幕末に砲台を設置した場所を「台場」というならば、
東京の「お台場」は…

そうです。ここもペリーの来航に対し、江戸を守る備えとして海上に砲台を築いた場所だったのです。
指定年月日:昭和53年6月30日
所在地:増毛町弁天町3丁目

4.普伝寺跡
明治40年に編集された「増毛町沿革史」には、「真言宗の寺院で「普伝寺」という寺を秋田藩が建設したが、慶応元年に焼失し、ついに再建することはなかった」と書かれています。
現在では、その痕跡を探ることも難しい過去の歴史ではありますが、秋田市には今も普伝寺が存続しており、当時の住職である識全師が寺号を持って増毛へ渡ってきたことが伝えられています。
どういった経緯かは伝わっていませんが、町内の願王寺には普伝寺の名が刻印された鐘が残されており、当時を偲ぶ唯一の資料と言えるでしょう。
秋田の普伝寺は1600年頃の創立と言われ、現在は東北三十六不動尊霊場の一つとなっており、多くの礼拝者が訪れるお寺としても賑わっています。
指定年月日:昭和55年7月1日
所在地:増毛町弁天町3丁目

5.増毛治安裁判所跡
明治維新と共に蝦夷地は北海道となり、開拓史が設置され、道の開拓は徐々に進んでいきました。
明治14年には留萌郡役所が増毛に移転し、増毛ほか五郡役所となります。
これにともない、犯罪や訴訟の事務を取り扱う札幌刑法課出張所も留萌から増毛へと移されました。これが増毛治安裁判所です。
当時は天塩国6郡の他、宗谷、枝幸、利尻、礼文の4郡も管轄下におかれていました。
増毛治安裁判所は、留萌簡易裁判所が設置された昭和23年にその役目を終え、廃止となりました。
指定年月日:昭和53年6月30日
所在地:増毛町弁天町3丁目

6.開拓使増毛他五郡役所跡
江戸から明治へと時代が移り変わる中、行政制度はめまぐるしく変化していきます。
明治3年に開拓使が成立すると、北海道は11国86郡に管轄され、増毛は宗谷支庁・天塩国増毛郡に属しました。
明治13年に開庁した留萌郡役所はわずか1年4ヶ月で廃止。
翌明治14年7月に増毛に移庁し、庁舎が永寿町3丁目に設置されました。
「増毛外五郡役所」とは増毛・留萌・苫前・天塩・中川・上川の六郡を指していますが、当時の郡庁は更に宗谷・枝幸・利尻礼文郡庁も兼務していました。
大正3年に支庁が留萌に移るまで、増毛は全部で10郡を統括する中心地となっていたのです。
指定年月日:昭和53年6月30日
所在地:増毛町弁天町3丁目

7.秋田藩増毛元陣屋跡
1855年に秋田藩が増毛での北方警備を命じられ、翌年から侍の詰め所として元陣屋が建設されました。
「黒船」で有名なペリーが浦賀に来航したのは1853年。
時を同じくして樺太にロシア船が来航、武力を使わずに占拠する事件が起きます。
このため、日本は急きょ蝦夷地と樺太における北方警備を行う必要に迫られました。蝦夷地は幕府の直轄地となり、東北諸藩が各地に陣屋を建設、警備と開拓を担うこととなったのです。
秋田藩は増毛を警備の拠点とし、宗谷と樺太には出張陣屋を設置してロシアの南下に備えました。
しかし出張陣屋のつくりは簡素で、冬の間には多くの凍死者や病死者が出ました。
彼等にとって一番恐ろしかったのは、ロシア軍よりも北海道の厳しい自然だったかもしれません。
指定年月日:昭和53年6月30日
所在地:増毛町永寿町4丁目

8.増毛税務署跡
北海道では道庁が設置された明治19年以降、新しい制度が続々と発足し、同時に新たな税金が導入され、様々な改革が繰り返されていきます。
明治29年に税務管理局が設置され、道内に新設された16の税務署の一つとして増毛税務署が置かれました。
北海道における税務署は、内陸にある空知税務署を除くと全ての施設が水産物営業人組合の所在地です。
北海道では明治20年以降本格的に農地開拓が進んでいきましたが、この頃はまだニシン漁を中心とした漁獲収入による北海道水産税が圧倒的なシェアを誇っていました。
指定年月日:平成4年12月4日
所在地:増毛町畠中町4丁目

9.増毛新廓跡
ニシン漁が最盛期の増毛町には、遊郭が数多く営業していました。
明治16年に小野寺富三郎が貸座敷の営業許可を取得して以来、町内には畠中3丁目から4丁目を中心に、いわゆるお座敷が増えていき、歓楽街を形成します。
増毛民話の藤十郎と芸者菊丸の悲恋話などが伝わっているのもこの時代です。
江差出身の女将が芸妓を小樽へ出稽古させるなど、芸道の水準を上げる努力も続けられていました。
中でも有名だったのが、料亭「やなぎ屋」です。
主人の今里竹茶は川上音二郎一座に俳優として在籍したこともあり、増毛に移り住んでからは荻原井泉水の門下に入り、自由律俳句の普及に努めました。
当時は他にも木村丁字などが活躍しており、文化面でも様々な活動が芽吹いていたのです。
指定年月日:昭和56年7月25日
所在地:増毛町畠中町4丁目

10.津軽藩勤番越年陣屋跡
1804年、長崎へ来航したロシアの特派大使レザノフは、日本に対し通商貿易を申し出ましたが、鎖国中であったために拒絶されてしまいます。
このことが引き金となり、彼の部下が樺太や択捉島を襲撃する事件が発生しました。
幕府は北方の事態に危機感を覚え、蝦夷地を幕府の直轄とし、東北諸藩に蝦夷地と樺太の警備を命じるのです。
しかし、慣れない北の極寒や栄養失調の中、宗谷で越冬中の津軽藩士は次々と倒れ、230名中半数のものが命を落とすという大惨事となります。
そのため津軽藩は、越冬するための陣屋を増毛に築いたのでした。
この頃の増毛は、北方警備の中継拠点という役割を担っていたのです。
指定年月日:昭和53年6月30日
所在地:増毛町稲葉町1丁目

11.増毛土木派出所跡
明治維新直後、蝦夷地が北海道となる前に、39の領地に分割された時期がありました。
明治2年に蝦夷地開拓が定められた際、山口藩や水戸藩が現地の領有と入植を申し出たのです。
留萌や増毛は江戸時代から好漁場であったために、秋田藩を含めいくつかの藩が願い出ましたが、最終的に明治維新で功績のあった長州藩こと山口藩が増毛を担当することとなりました。
早速山口藩の増毛出張所が設置されますが、明治4年に廃藩置県が行われると、蝦夷地は北海道として統一。開拓使の管理下に置かれることとなり、山口藩も増毛を引き揚げていきます。
結局山口藩の滞在は、たったの1年半という短い年月で終了してしまったのです。
指定年月日:昭和54年7月25日
所在地:増毛町暑寒町3丁目

12.官立札幌病院増毛出張所跡
明治5年、開拓使により「増毛派出病院」が設立されました。
明治8年に札幌病院に移管され「留萌出張病院増毛派出病院」と名を改めます。翌年にも「増毛病院出張所」と改称、程なくして「札幌病院増毛派出所」となりました。
明治12年からは「公立増毛病院」となり、明治21年には弁天町3丁目の高台に移転します。
人口が急増した背景もあり、その後、阿分、岩尾にも出張所を設け、医師が一名ずつ常駐しました。
明治33年に町立病院となった後、昭和23年に北海道に移管され、道立増毛病院となり、暑寒沢へと移転します。
道立増毛病院は昭和56年に閉院。同じ年、その後を受け継ぐように増毛町立市街診療所が開設され、現在に至ります。
指定年月日:昭和53年6月30日
所在地:増毛町港町

13.増毛運上屋跡
運上屋は江戸時代の各地に設置されていた機関で、蝦夷地における松前藩の出先機関や宿場として使用されていました。
もとは松前藩がアイヌとの交易拠点として各地に設けていたものですが、後に漁業が活発になると、漁場の経営もその役割となります。
江戸時代の蝦夷地では、米が生産されていなかったため、松前藩では俸禄の代わりに「場所請負人制度」を敷き、交易の権利を家臣に与え、運上屋はその中心的役目を担いました。
運上屋の経営は商人が受託し、租税として運上金を収めたのです。
増毛では1750年頃から、村山家・伊達家の商人が運上屋を経営し、明治に入り場所請負人制度が廃止されるまで続いたのでした。
指定年月日:昭和53年6月30日
所在地:増毛町港町

14.水戸藩主一行宿営の地
第11代、水戸藩最後の藩主、徳川昭武は、明治2年に北海道天塩国のうち苫前郡、天塩郡、上川郡、中川郡と北見国の利尻郡、計5郡の土地割渡しを出願し、その土地の支配を命じられました。
そして翌明治3年、昭武は、北海道を視察するため自らも参加し、75日間をかけ各地を周ったのです。
増毛には増毛山道を踏破して訪れ、この地に宿営しています。
水戸藩が北海道開拓に熱意を持った情勢には様々な見解がありますが、一説には水戸徳川家として家臣たちの新天地を北海道開拓に求めようとしたとも考えられます。
しかし、明治4年に廃藩置県が行われ、開拓使が誕生したことで昭武の夢見た北海道開拓は水の泡と消えてしまったのでした。
指定年月日:昭和55年7月1日
所在地:増毛町港町

15.開拓使増毛船改所跡
船改所は、港を出入りする船を管理するために、開拓使が設けた機関です。
増毛には明治13年の7月に設置されました。
船改所では入港する船の検査、出航する船の免許状の交付、積載する貨物に対する税金の徴収、さらには積荷の売買の適正な指導、出航の際の積荷の世話など多岐に渡る業務が行われていました。
しかしこの機関は、設置されてからたった3ヶ月しか経たないうちに、廃止されてしまいます。
当時、船改所の持つ仕事は税務署や水産組合など新しくできた組織で取り扱うようになり、船改所は随時廃止されていく時代の流れにあったのでした。
指定年月日:昭和53年6月30日
所在地:増毛町港町

16.入舟町浜茶屋跡
弁天町から中歌にかけての地形は、大きな自然の湾を形成しており、増毛は古来、船が数多く往来する土地でした。
明治時代、このあたりは入舟小路と呼ばれ、入港する船員を相手に浜茶屋が賑わっていました。
また、この時代には、道北に有力港湾の設置が叫ばれるようになり、留萌と増毛のどちらに港をつくるかで両者の間には熾烈な誘致運動が行われるようになります。
天然の良港である増毛と内陸交通の面で優位な留萌、時の内務大臣である原敬も秘書官を伴って現地視察を行いました。
最終的には留萌に軍配が上がり、第一期拓殖事業計画で留萌港の建設が始まりました。
増毛町では単独の起債による漁港建設が行われることとなり、昭和3年に竣工しています。
指定年月日:昭和54年7月25日
所在地:増毛町中歌

17.秋田藩元陣屋第二台場
秋田藩がロシアに対する備えとして設置したこの第二台場にはホイッスル砲1門、和製の大砲が3門備えられていたことが、安政3年(1856年)の資料からわかっています。
ホイッスル砲は当時における最新式の大砲で、砲弾の中にも火薬が詰められており、爆発することで着弾した周囲に被害を与えることができるものでした。
ただし、最新鋭とはいえ、たったの1門では決定的な戦力とはなり得なかったようです。
残る3門の和砲は火縄銃を大きくした簡単な構造で、鉛玉や鉄の塊を飛ばすだけのものでした。
流派がいくつかあり、火薬の扱いなどは秘伝とされていたようです。
指定年月日:昭和55年7月1日
所在地:増毛町別苅

18.リンゴ栽培の父藤原筆吉翁の碑
ここには増毛町における果樹栽培の先駆者、藤原筆吉の碑が立てられています。
明治16年に筆吉が暑寒沢にリンゴの苗を植え付けた時から、増毛町の果樹園の歴史が始まりました。
精米業で資金を蓄え、果樹園が将来を期待された産業だという希望を抱いてのスタートでしたが、初めの頃は肥料のやり方や剪定の技術も確立されておらず、継続して十分な収穫を得るまでには大変苦労したようです。
筆吉は町会議員として、また果樹栽培組合長として奔走する傍ら、最新の技術を自ら習得しに出かけるなど努力を惜しまない人でした。
そのかいもあり、大正5年に導入された「デリシャス」はその味の良さが評判になり、札幌や東京でも増毛リンゴが消費されるようになりました。
指定年月日:昭和58年7月21日
所在地:増毛町暑寒沢

19.天塩国水産会さけます孵化場跡
増毛の味覚としてサケが定着するようになるまでには、幾多の試みがありました。
昭和13年、天塩国水産会がこの地に孵化場を建設し、サケの放流を開始したのです。
当時は、暑寒別事業場と呼ばれており、200万粒のサケの卵を収容する能力があり、網走と知内の事業所から移入して放流が始まりました。
その後、用水量の不足や水温低下が原因で事業継続は難しくなり、昭和35年で孵化放流は中止されてしまいます。
しかし、壊滅的になったニシン漁に代わる漁業資源としてサケへの期待は強く、昭和38年に道立水産孵化場が増毛に支場を建設し、現在に至っているのです。
指定年月日:平成11年2月10日
所在地:増毛町南暑寒町6丁目

20.雄冬冷清水
現在のように水道が整備されていない時代、飲み水の確保は非常に重要な問題でした。
特に、長旅をする海上交通においては海水を飲むことができないため、豊富な湧き水のある港は重宝されました。
冷清水は雄冬の住民や旅人が利用する飲料水として現在まで愛されてきましたが、最近では、衛生上の問題から飲用が禁止されています。
指定年月日:昭和54年7月25日
所在地:増毛町雄冬

21.雄冬遺跡
昭和42年、住民が雄冬小学校の裏を畑にしようと地面を耕していたところ、土器とこぶし大の石を多数発見しました。
周囲を調査すると、黒曜石や土器の破片が数多く確認されたのです。
遺跡は縄文時代のもので、階段状に分布している大きな岩の間に、人の営みがあったものと考えられています。
出土した土器を復元してみると、縄文時代中期に広まった円筒上層式土器であることがわかりました。
またその後、比較・検証をすると、函館市で発掘されたサイベ沢式土器に比類していることもわかりました。
サイベ沢式の土器類は、北海道南部と東北地方北部の文化的つながりをうかがわせるもので、その流れは道北地域にまで波及していたことが想像できます。
指定年月日:昭和54年7月25日
所在地:増毛町雄冬

22.舎熊遺跡
増毛町内には「埋蔵文化財包蔵地」が16か所あります。
「埋蔵文化財包蔵地」とは土器や石器、それらを含めた遺跡など、古代の人々の暮らしに関する資料が発見された場所のことで、舎熊遺跡もその一つです。
昭和45年と昭和59年に調査が行われ、この時、縄文時代の北筒式土器と擦文式土器が多く発掘されました。
また、この他に亀ヶ岡式の系統と思われる土器も見つかっています。
亀ヶ岡式土器は、東北から道南の文化圏で製作されたものです。
これに対して、北筒式土器は道北・道東地域の文化圏に属しています。
古代の増毛は、様々な地方の文化圏をつなぐ役割もあったのではないか、そんな空想が膨らみます。
指定年月日:昭和55年7月1日
所在地:増毛町舎熊244番地

23.旧高橋農場跡
ここは、明治から大正にかけて増毛町農業の発展に多大な貢献をした高橋卯七が農場を経営していた場所です。
卯七は庄内藩に生まれ、一兵として奥羽越列藩同盟と新政府軍の戦いにも参加しましたが、明治維新後に北海道へと渡りました。
「日本の酪農の父」エドウィン・ダンの指導を受け、札幌の開拓に従事していた彼は、その技量を見込まれ、郡長の勧めで朱文別沢へ新天地を求めます。
そして広大な土地を開拓すると、4年後に水稲栽培を成功させ、造園や造林でも幅広い研究を重ね、周囲の開拓者へその技術を広めていきました。
遠く天塩方面へも農業指導に赴き、その功績は大日本農会から農事改良の功で表彰を受けています。
指定年月日:昭和54年7月25日
所在地:増毛町舎熊

24.別苅発祥の地
ここには、1750年頃に松前の商人である村山伝兵衛によって、出張運上屋が設置されました。
これを機に別苅地域にも本州から多く和人がやってくるようになり、集落としての定住が進んでいきます。
運上屋の裏の小高い場所には恵比寿を祀り、漁場の守護神として神社を建立しました。この恵比寿神社は明治9年に現在の場所へと移設されています。
別苅という地名が確認できる一番古い資料を探していくと、幕府が全国の石高を調査した元禄郷帳に「ベツカリ」という地名が見つかります。「崖のこちら側」というアイヌ語「ペシ・トゥカリ」が元になっていると考えられます。
指定年月日:昭和55年7月1日
所在地:増毛町別苅

25.旧増毛山道入口
増毛と浜益の間を通行するために開削されたのが増毛山道です。
増毛から浜益へと続く海岸は急な崖が続く地形で、陸上の交通には困難を伴ったため、山道の整備は重要でした。
1857年、増毛の漁場を請け負っていた伊達林右衛門が自費で山道を整備し、約55キロの道を完成させました。
このうち、増毛町の別苅と石狩市浜益の幌を結ぶ約37キロの区間を増毛山道と呼びます。
昭和16年に道中にあった郵便物の交換をする駅逓が廃止され、山道を行く人はほとんどいなくなりましたが、雄冬と増毛を結ぶ部分は昭和56年に国道が開通されるまでたびたび利用されていたようです。
平成21年から地元の有志によって結成された「増毛山道の会」により復元作業が行われ、平成28年に全線復元が完了しました。
指定年月日:昭和54年7月25日
所在地:増毛町別苅

26.増毛郡役所出張所跡
明治12年、全道で郡区町村が編成され、増毛は増毛郡となり、7町5村で構成されました。明治14年に増毛郡役所が設置されると、増毛のほか留萌・天塩など6郡を管轄することになります。
これに伴い、別苅には郡役所の出張所が置かれ、また、戸長役場も設置されました。
増毛郡の人口が急増したのはそのためとされており、当時の発展ぶりがわかります。
別苅出張所は、郡役所制度が廃止される明治30年を持って、その務めを終えました。
指定年月日:昭和54年7月25日
所在地:増毛町港町

27.阿分発祥の地
「アフン」は、アイヌ語で「入る口のある穴」という意味の「アフン・ル・パロ」が語源です。
この地域には何か所も洞窟があったとされており、こうした洞窟はあの世から死者の霊が出てくる場所であったり、逆に現生の人間が死者の世界へと行くことができるという伝説とともに語られていたようです。
ただし、道路の開削や地形の変化によって、現在では失われています。
幕末に松浦武四郎が記した地図には、アフンという地名はなく、「アフシラリ」が確認できるだけで、「アフン・ル・パロ」という地名は、江戸時代の早い時期にすでに使われなくなってしまっていたのかもしれません。
指定年月日:昭和56年7月25日
所在地:増毛町阿分

28.松浦武四郎信砂越えの地
北海道の名付け親、松浦武四郎は、1855年に幕府の命を受け、蝦夷地の調査を行います。明治に入ると新政府の開拓判官を命じられ、蝦夷地に「北海道」という名称を与え、現在につながる国名・郡名を策定しました。
武四郎は何度か増毛にも立ち寄っており、秋田藩元陣屋の様子やアイヌ人の暮らしぶりなどを記録しています。
中でも石狩川から恵岱別川を遡り、仁奈良峠を越えて信砂から日本海へ出る行程は「信砂越え」として知られています。
道の全くないところを、藪をこいでの道中は、大変な困難を極めたそうです。
指定年月日:昭和54年7月25日
所在地:増毛町舎熊

29.信砂水田発祥の地
増毛町で水稲による米作りが始まったのは、明治15年のこと。
試作が行われたことが伝えられていますが、目立った収穫はなかったようです。
その後、札幌から移住してきた高橋卯七は朱文別沢に広大な土地を開拓し、明治23年に本格的な水稲栽培を成功させました。
信砂方面での稲作は、漁家でもあった石田小一郎が初めに手がけました。
高橋卯七の開拓に刺激され、牛にハローを引かせて造田に打ち込んだのです。
その後、明治33年に信砂川の水を灌漑することに成功し、信砂開拓の先駆けとなりました。
明治43年に小野寺農場の小作人・秋山清四郎が、この場所に約3反の水田を造成し、これを機に信砂における水田が急増し、稲作産業のけん引役を果たしたのです。
指定年月日:昭和57年8月20日
所在地:増毛町信砂

30.仁奈良山道・仁奈良駅逓跡
空知方面と増毛町を結ぶ道道94号線は、仁奈良山道や仁奈良街道と呼ばれており、ここには明治24年から仁奈良駅逓が設置されていました。
駅逓とは、北海道の開拓時代に作られていた施設で、街道を通る旅人に宿泊場所を提供したり、次の駅逓まで馬を貸し出したりした機関です。双方から運ばれてきた郵便物を交換する機能も持っていたと言います。
幹線道路とともに鉄道が整備されていくと、徐々に駅逓はその役目をゆずるようになり、昭和21年、駅逓制度は廃止になります。
多い時では北海道内に200以上もの駅逓が整備され、行き交う人々の憩いの場となっていたことでしょう。
まだ歩いて旅をする人が多かった時代のお話です。
指定年月日:昭和55年7月1日
所在地:増毛町信砂