希代の大ほら吹き、はんべんごろう~元陣屋構築前夜~

“はんべんごろう”とは、ハンガリー出身のオーストリア軍人“ファン・ベニョフスキー”。
長崎出島のオランダ商館員が“ファン・ベンゴロ”と綴りを誤ったことから“はんべんごろう”になってしまいました。

この男、1771年になぜかオランダ商館長宛てにドイツ語で手紙を2通送っています。
中身は阿波の国に寄港した折に良くしてもらったのでお礼を言うという内容。
なぜ政府関係者でなくオランダ商館に送ったのかがそもそも意味不明ですが、この男は手紙の中で物騒なことを書いていました。

(ファン・ベニョフスキー)

大ぼらが招いた国境警備

“ルス国が日本を現在巡察しており、来年は松前とその近辺を占拠する計画である”というのです。
この手紙についてオランダ商館長アルメナウルトは幕府へ報告しますが、幕閣はまともに取り合いませんでした。
ところがこの手紙が後に世間に漏れてしまい、諸外国への危機感を強めた林子平は「海国兵談」を著し、ロシアの南下に警告を発します。
子平は危険思想家として仙台へと追いやられてしまいますが、北方警備の必要性や海軍の増強を唱える自説は後の世に強く影響を与えました。


…ところが。このベニョフスキー、彼の書いた回想録は大ぼらと作り話が満載です。
7年戦争にオーストリア軍大佐として出陣したことも嘘なら父が伯爵で将軍というのも嘘。
ロシアとの戦いで捕虜になり、カムチャッカ半島へ流されますが、そこで陸軍大尉の長女と熱烈な恋に落ちたというのもでっちあげ。


やがてベニョフスキーはこの地で反乱を起こし、船を奪って出航します。
一路本国へ帰るはずが途中で嵐に遭い、水と食料を求めて日本に立ち寄ったというのが冒頭の手紙につながるわけです。


で、当時本当にロシアが日本近海を測量して要塞を築き、侵略の準備をしていた…わけはありません。
千島列島にはささやかな居住区があるに過ぎず、アイヌ人との関係も悪化、カムチャッカの開発すら手がつかない状況だったのですから…。


ベニョフスキーはこの後台湾に立ち寄り、住民と紛争を起こした後マカオに寄港、ヨーロッパへ帰って例の「回想録」出版で大当たり。
その後マダガスカルに植民を試みた挙句、地元住民を扇動してフランス軍と戦い、流れ弾にあたって死亡するというよく分からない人生を送ります。


結局、何の根拠もない嘘っぱちの手紙が北方への注意を喚起し、国境警備という流れをつくるきっかけになったのです。歴史って面白いですね。


(参考文献:黒船前夜/渡辺京二 著)
※元陣屋にも置いてあります